主宰 元北海道大学工学部 文部科学技官 石川栄一
The movies of Eiichi Ishikawa.
 
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 最終更新日 2015/2/22
激動の北大史1969
第一部
激動の北大史1969
第二部『北大11.8』
激動の北大史1970
ANPO’70
 およそ45年前に撮影・編集した作品のため、お見苦しい箇所が多々あるかと思います。なお人物特定防止のため解像度を甘くしておりますが、ご意見などがありましたらご連絡ください。
北大紛争の背景と情勢
 私は当時の北大情勢を全く知らないままに、北大工学部・封鎖阻止行動委員会(工学部自警団)に参加し、過激派の撃退と8ミリ映画の制作に邁進したため、それを視聴する方に詳しい説明が必要かと思いました。
 つきましては、本「激動の北大史シリーズ」に解説文を次に掲載します。ご投稿いただいた執筆者にたいし、心からお礼を申し上げます。      
元・北海道大学工学部 文部技官 石川 栄一
シリウス通信 札幌を中心とした 道内の映画自主上映や 公演・美術情報
作品内容
ニューテレシネバージョン

8ミリフィルム原版は
北海道大学 大学文書館所蔵

第一部
激動の北大史1969
第一部
『制作・テーマ曲』 石川 栄一

・北大構内を武装デモする全共闘過激派集団。
・過激派による大学封鎖に抗議する教職員と学生。
・過激派に対する怒りが爆発した教職員と学生。ついに総勢数百名による投石合戦が勃発。
・大学構内のほぼ全域で、過激派集団と教職員学生が激突。・翌朝までの12時間に渡り火炎瓶や投石、さらに鉄片や巨大なボルト・ナットまでが飛び交い大乱闘が展開される。
・封鎖解除のため導入された三千人の機動隊。
第二部『北大11.8』
激動の北大史1969  
第二部
『制作・テーマ曲・ナレーター』 石川 栄一

1969年11月8日、北大事務局の封鎖解除のため北海道大学に機動隊導入。
機動隊と全共闘、革マル派学生との激突を生々しく記録。 


ANPO’70
激動の北大史1970
 『制作・テーマ曲・ナレーター』 石川 栄一

平和中立の日本を目指し、日米安保条約の廃棄のために闘う青年と学生の姿を記録。
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大学紛争と教職員組合
「当時在職していた者の一つの見解」


☆ 大学民主化の流れ

 大学は、白い巨塔(医学部)などと形容されるように、「教授を頂点とする講座単位の封建的牙城だ」と、社会的に言われてきた。
 俗に言う大学紛争の、初期の目的はこれを改める事にあった。教授陣に対する学生の反発が、いわばきっかけとなって発生した。後に「帝大解体」などの、スローガンに変化し、初期の目的が消失し、紛争そのものが目的化していったきらいがある。運動の在り方も、討論を主体にした世論形成というやり方を否定し、一挙に大学封鎖、拉致、暴行というような民主主義の原則から離れ、過激な戦術が主力となっていった。

 マスコミも、人が犬を噛むと喜んで報道するという特質を丸出しにして報道し、世論を煽った事もあり、東大から全国に飛び火し、北海道大学でも、封鎖の嵐が吹き荒れた。そしてこれが大学紛争の総てのような報道になり、紛争そのものを報道することが目的化して行った。
これは大学の民主的改革に大きな障害となった。
 しかし、大学民主化の本当の流れは、これら一部の学生による「大学紛争」そのものでは決してない。

 北海道大学を例に取れば、4年に1回ある学長選挙、又は2年に1回ある各学部長選挙などで、候補者が政策を発表し、全教職員で投票(学部長の場合)するという、学内民主主義を推進する動きは、地味だがコツコツと進められてきた。これは教授を中心とした縦割り支配の否定と、各構成員(教官・職員・学生)の夫々の役割の認知という運動でもあった。

 【大学】(university)学術の研究及び教育の最高機関、一般に中世ヨーロッパの大学を起源とし、始めはボロ-二ヤ大学などのように、教師や学生のギルド的団体として発生し、近代国家の発展と共に19世紀以後今日のような形態となった。・・・(広辞苑)・・・とあるように、大学はギルド(同業者組合)的に、夫々の立場の役割があって成り立つものであり、教師、特に教師の最高位の教授だけが大学を支配するものではない、という立場が、大学民主化の根底にあるように思う。

 大学民主化では、もう一つ、文部省による大学へのコントールへの抵抗という流れがあった。特に国立大学の予算不足に対する困窮と、それに付け込む設置者(文部省)からの各種の干渉の排除である。イギリスでは、サッチャー首相以前は「設置者(政府)は、(大学に)援助して干渉せず」を基本としてきた。それは、科学研究の最前線を行く大学に対し、政治家や一般世論がその時の都合で、研究や教育に対し、あれこれ干渉をすると、未知の世界を切り開く、最先端の研究や教育が発展しないという本質があるからである。「教育研究の自由」という概念はここに由来する。

 大学紛争の初期の目標というか、主張はこれら一連の問題が渾然一体となって、主張されたが、東大では、加藤学長(代理)のもとで、学内各層(教官・職員・学生・大学院生)が集い、討論を重ね、紛争の後半に、学内の運営で一定の合意に達し、取りあえず決着した、事になっている。


☆ 紛争を引き起こした者達

 東大医学部で、学科(診療科)の運営を巡って、紛争が表面化し、一挙に学部が封鎖された。後はこの実力行使が全国に広がるのに、そう時間はかからなかった。 特に、北大は何でも東大を見習うという特性があり、紛争までも直輸入された感がある。
 ここで、この紛争の主役を、明確にしておく必要がある。革マル・ブンド・赤軍派・社青同等々のグループと、これ等の組織が三派・五派連合などと離合集散した組織である。これ等の組織を一括りにして呼ぶ呼称もあるが、ここではあえて本人達の主張の名称とした。これ等の集団には一定の共通の特性ある。

 第一に、民主主義的な議論や討論により世論を喚起し、問題を解決するという事を認めない。

 第二に、既成の政党を認めない。「腐敗した社共を乗り越えて」というスローガンにあるように、当時進歩的といわれていた政党も、乗り越えるべき対象として攻撃した。この事は「ミンコロ(民主青年同盟)を殺せ」というスローガンを掲げ、打倒民青が運動の中心になっていた時期もあり、明らかである。しかし、不思議な事に、当時の保守党「自民党」を批判したスローガンを見たことはないのは、何故だろう。

 第三に、自分だけが優れていて、一般国民を低く見ていたこと。紛争の最後の頃には、他派や仲間までも「総括」と称して、拷問を加え虐殺するという、異常さが顕著であった。自己の優越性を主張し、他者を低く見るのは、この時始まったわけではなく、第二次世界大戦でヒトラーがユダヤ人を劣った民族だから抹殺する、と言って大量にガス室に送った事がある。更に、日本の天皇制の元で大東亜共栄圏を建設するという構想も、この民族優越感が根底にある。

 第四に、第一の特性とも関連するが、根気強く運動を進める気力や持続力がなく、一揆的な行動を取る事。これが、封鎖やすぐ暴力に走るという根拠になっている。

 第五に、敗北すると、今まで攻撃していた相手側に臆面もなく寝返る事である。この特徴は、紛争の真っ最中に「第四機動隊の○○さんに連絡せよ」という、信じられない事が、当時の東大職員から写真付で暴露されていることでも明らかだ。これは第二の現象とも関係があるものと思う。


☆ 北大の場合

 北大では、既に全国各大学で「紛争」が勃発していたため、特に具体的な要求も目標もなく、隣がやるから俺もやる、強いて理由を挙げれば東大に遅れを取るな、くらいであろうと私は思っている。組織的には全国組織は殆ど北大にも存在していたと思われるが、北大には黒い旗を掲げた「戦う集団」という教職員が指導していたと思われる組織もあった。

 北大では、教養部、大学本部、図書館などがまず封鎖され、次に法文経教育が封鎖され、理学部、農学部、工学部などが次々襲われた。
 封鎖の理由も要求は何もなく、「帝大解体」というスローガンと、夜になって、インターナショナルのメロディが流されていた。革命ゴッコのつもりかも知れない。

 封鎖に加わっていたものは、北大生とは限らず、時間を持て余している、又は大学受験の目標を失ったと思われる予備校生も参加していた。これ等の学生などを、職員が指揮または指導していた。その中には北大の職員もいたと思う。学生達は、封鎖した教養部・図書館・本部・法文経・教育に立てこもり、特に教養部から夜な夜な南下し、理学部や農学部を襲って建物に投石し被害を与えた。途中の工学部にも時々石を投げに来た。

 封鎖した建物の中はメチャメチャで、特に事務所は目を覆う惨状で、教務の机はひっくり返へされ、メチャメチャにされた。多分自分の成績が気になったのだろう。当時の和文タイプライターは文字盤がひっくり返され、使い物にならず、教育学部の学部長室は、ピンクホテルの跡ではないかと思われるような痕跡もあった。
 彼らのスタイルは、夫々の集団のマーク入りのヘルメット(メットと呼んでいた)、よれよれの手ぬぐいによる覆面、タルキによる角材の武装、これで「完全武装」と呼んでいた。

 この他、大将らしいのは、長い柄の大型の草刈鎌を掲げていたのもいた。投石の材料は、歩道の敷石を剥がして割ったものが主だった。バリケードは机や椅子、教壇や本箱であった。
 この学生達は、北大教職員組合の書記局(事務所)をも攻撃し、中に人がいるのに、木造の建物に放火するという危険な事も行なった。幸い工学部などの行動隊が救助し事なきを得たが、殆ど血迷ったとしか言いようが無い。
 初期には、主に大学の中で暴れていたが、後半は街頭にも出て電車を止めたりして一般市民にも迷惑をかけた。


☆ 大学本部(評議会・教授団)

 これ等の人達を、一杷一絡げにするのは、多少抵抗があるが、基本的には、自分達で解決の方向を見つけ出そうとしていた点では、共通性がある。
 頂点で堀内寿郎学長が指揮し、評議員や、学部の教授会や教官個人が大学防衛に当たった。工学部、薬学部では、建物に金網を張り、投石から建物を守った。一時札幌の金物屋から金網が消えたこともあった。

 しかし、金網を張り、泊り込んでも、紛争の本質的解決はない。そもそも帝大解体では、話に応じようがない。初めから妥協案など無いのだ。とにかく授業の場を確保する事、できれば研究を続けたい。
何よりも、政府から出された時限立法の「大学(解体)法」の適用を避けたい、ということで、慣れない専門外の「紛争という分野」で、体を張り、議論しなければならなかった。とうの昔に教授という権威は存在していなかったが、特にゲバルト(暴力)の前では教授の存在は殆ど無力であった。
 堀内学長は、「ミンコロ」といわれ、付けまわされた。

 それでも、評議会は紛争鎮静化に向けて学外で評議会を開くなど努力を重ねた。工学部や薬学部などでは、教授会を開き「封鎖解除決議」や「抗議」の決議を採択し、封鎖学生に手渡すという行動を取った。
 この他、全学の教官有志による封鎖に抗議する「教官団」を構成し、横断幕を掲げ抗議デモを行なった。これは特記すべきことである。

 事務局を中心とする大学管理機構はこの間何をしていたか。事務だけあって、最初に行った事は、書類の学外への持ち出しであった。事務局の職員は、封鎖されていない学部を逃げ回った。
 次に文部省と北警察署への詳細な報告である。最も力を入れたのは、文部省の指導に基づき国家権力(警察)の導入を、学長や評議会へ「進言」することであった。


☆ 教職員組合・学生自治会・大学院生協議会
 最後に、教授会メンバー以外の大学構成員の動きはこの間どうであったかを記しておかなければならない。実は教職員組合、学生自治会、大学院生協議会の果たした役割は極めて大きかったと言うべきであろう。各層が協力して事に対処し、正に大学自治の精神を発揮したと言うべきだろう。

 当時、これ等の組織は「北大共闘会議」を結成し、常々共同行動を取って学内の民主化などで交流していた。紛争中には、中央ローンで一万人集会を企画し、学内世論を結集するなど大きな役割を果たした。封鎖学生に、論争を挑み、実力で封鎖を解除したのは、これ等の組織である。

 大学院生協議会は、封鎖の矛盾を理論的に論破し、学内の世論を形成し、彼らを圧倒した。
 教職員組合を中心とする学内の守備隊は毎夜泊り込み、封鎖学生からの攻撃を封じる役割を果たした。工学部では職員・学生・大学院生の泊り込みを毎日行い、封鎖を遅らせた。理学部には、学生自治会が泊り込み、向かいの法文経教育を封鎖している学生達と対峙した。

 しかし、彼らは毎夜のように攻めてきて、理学部や農学部をも封鎖した。途中法文経教育を解除した事があったが、このために法文経教育の大学院生を中心に、封鎖解除を求める署名を行い、署名が過半数を超したのを機に、抗議集会を開き「解除を要求」し、工学部の行動隊が中心になって封鎖を実力で解除した。
 こうして、教室や、職場を守ったのは、これ等の人達であった。
この他、学長の護衛、学部長や教授の護衛、拉致された教授の奪還など、殆どこれ等の組織が敏速に行動し行なった。
 職員の間にも、封建的な教授に対する反感があったが、論理を否定し武力で押さえ込もうとする彼らのやり方に対しては、より大きな反感があった。  ただ、一般学生は、いわゆるノンポリといわれるように、授業が無い事を幸に、高見の見物をしていたか、大学に出てこなかったようである。


☆ 大学紛争とは何であったか

 教職員組合は、紛争が始まる前から、大学の民主化や、大学に対する外部からの干渉に反対する運動を、地道に行なってきた。特に学長選挙で候補を立て、北大の進むべき方向を示し、学内世論をリードしてきた。学部では選挙権の拡大や、各構成員の役割を認めさせ、協力して教育研究を進めることが大学の発展につながると主張してきた。
 特に、文部省からの干渉に反対し、北大自治の拡大を求めてきたが、安井という庶務課長が文部省から派遣され、文部省の支配が一層強まった。
 北大を「文部省北海道出張所」と呼ぶ人も居るくらい、北大は文部省の言いなりの大学に変身した。

 大学が、自由な研究と教育を発展させる事で、社会に寄与できるのだが、時の国家権力からの干渉、経済界からの干渉、そして自衛隊員の入学などの軍事研究推進など、解決すべき問題は山ほどあったが、この紛争で、メチャメチャにされた。
 紛争も、独自に大学の構成員による力で解決すべく努力してきたが、これも最終的には機動隊に活躍の場を与える事になった。全国的には、「大学(解体)法」を招き、政府の干渉を許した。
 これは、単なる偶然であろうか? 否、色々な変化を求める運動に、常に介入し運動を混乱させ破壊する人達が居る。戦争と平和の問題、社会改革の問題、自然保護や環境問題、原子力発電問題など、決して自分では運動を構築せず、誰かが運動を構築すると乗り込んできて、運動を混乱させる人達である。そしてこれ等の人たちは右翼と共に泳がされていて、為政者が窮地に立つとき必ず現れ、これを救う役割を果たしてきた。

 いま(2005年現在)日本国憲法九条を取り払おうとする勢力と、これを守ろうとする全国的な動きが、対峙している。
そのうち彼らが出てきて運動を混乱させ、改憲派に、九条を守る運動を潰す口実を与える恐れがある。この一文は、もう忘れかけている、これ等の事を再度検証し、今後に役立てて欲しいと思い記述した。
災害は忘れた頃にやってくる」この言葉をもう一度噛締めてみよう。

【寄稿】 執筆者 元北大工学部 文部事務官 今野平支郎氏

今野平支郎氏は、北海道大学きっての雄弁家であり、政治と労働運動に卓見を持つ彼は、「北大民主化促進のための行動力と知性」を備えた数少ない人材であったといえます。いわば、北大教職員組合の軍師、竹中半兵衛や黒田官兵衛的、存在でしたね。
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主宰者 元・北海道大学工学部 文部科学技官 石川栄一
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